NATIONAL AGRICULTURAL CHEMICALS WHOLESALERS UNION

ヒストリー

50年史「全国農薬協同組合設立の経緯」

1.戦前の商業系農薬販売業者の中央組織

1940~1945(昭和15年~20年)

商業系農薬販売業者の中央団体「都道府県共販組織の全国的中央会」がはじめて組織されたのは、1940(昭和15)年であった。これは、農業薬剤配給統制規則に基づき、府県の共販組織を母体として設立されたものであった。設立の背景は、当時日中戦争が4年目に入り、戦時経済統制が深刻化し、経済統制が国民経済全般に深く浸透し、農薬も原料資材の手当、生産、配給のコストまで全面的な統制が必至となったためである。農薬メーカーの中央団体としては、前年の1939(昭和14)年8月に、農薬統制組合が設立されている。敗戦の前年、1944(昭和19)年には物資が極度に不足し、流通が滞り、闇価格が続出したが、これは、少ない物資を多数の配給業者が取り扱うために生じるというのが、この頃の政府の考え方であった。このため、軍需・農商の各省は、流通過程を徹底的に整理しようと意図した。

かくて、1944年12月14日、農商省、全国農業経済会、農薬統制会社(農薬統制組合⇒1940年9月農薬共販株式会社⇒1943年9月農薬統制株式会社)から委員を選出、「農業薬剤配給機構整備委員会」が結成された。いうまでもなく、この委員会は、配給機構を整理するという名目で、商業系代理店を配給業務かち外し、系統機関だけを通じて配給しようとする政府の意図を代行する機関であった。農業薬剤配給機構整備委員会は予定通り、商業者はその営業権を系統へ売り渡すこと、その対価として全国農業経済会は商業者に整備資金を支払うという構想を明らかにした。これに対し商業者は、当然激しい抵抗を示した。このため事態は紛糾したが、戦時統制経済を支える各種の法律の強制によって、結局商業者は、その営業権を総額210万円で全国農業経済会へ譲り渡すベく余儀なくされ、最初の商業系代理店の中央機関は解消した。

2.戦後から全国農薬販売組合中央会~全国農薬販売協同組合連合会

~全国農薬商業協同組合連合会の設立迄の時代~ 1945~1956(昭和20年~31年)

1945(昭和20)年8月15日、日本の無条件降伏によって、第2次世界大戦は終結した。
敗戦と同時にインフレーションが日本全土を吹き荒れ、国民経済は異常な混乱に陥ったが、この敗戦の年は、米の生産高がわずか3,915万石(約587万トン)というかつてない凶作であった。このため、戦時中極度に物資が不足した時でも、2合1勺の主食配給量が維持されていたのに、20年代後半期に入ると、ついに配給量を確保することができなくなった。しかも、主食に占める米の比率は極端に低下し、じゃがいも、甘藷、脱脂大豆、とうもろこしが、主食として配給される事態になった。このような深刻な食糧事情を解決するため、占領軍の指令を受けた政府は、応急策として昭和21年2月、食糧緊急措置令を施行。これに伴って、食糧危機突破対策要綱を発表したが、農林省は、これに基づいて農業薬剤緊急対策をたて、農薬統制会社を督励して、農薬の増産計画を立案、これを遂行させた。しかし、政府の一連の食糧増産政策は急場に間に合わず、この年の5月19日、皇居前広場で米よこせデモが行われ、それから5日後の5月24日、天皇陛下は自らマイクの前にお立ちになって、祖国を再建するため、国民が協力して食糧増産を克服しなけれぱならない旨を諭されたのであった。敗戦後の食糧不足は、上にみたような劇的な光景を現出したが、この21年の10月、「統制会を解散して公団を設置することに決す」が公布された。このため、各種の統制会社はすベて解散されたが、戦時中設立された農薬統制会社も、10月から新組織による農薬統制会社に改組した。この改組された農薬統制会社は、1947(昭和22)年10月解散、同年12月に設立された農薬振興会に転化するが、この振興会は翌昭和23年閉鎖され、同年10月に結成された農薬クラブへ転化する。この1948(昭和23)年8月1日には農薬取締法が施行され、その前年の10月には農薬検査所が開設されている。このような情勢のなかで1948(昭和23)年に、戦後、商業系代理店の中央機関である全国農薬販売組合中央会が結成された。

1952(昭和27)年6月には、全国農薬販売協同組合連合会が全国農薬販売組合中央会の発展解消の形で結成され、初代会長に小林啓八氏が就任した。この当時の農薬の一般情勢は、BHC粉剤がニカメイチュウ防除に使用され始め、全国でホリドールよこせの呼び声が高くなり、有機水銀粉剤がいもち病用に大量使用の兆しをみせるなど、水稲に近代農薬が爆発的に普及する情勢にあった。この農薬普及を支えたもう一つの要因に、昭和25年に施行された植物防疫法とこの法律に基づいて農林水産省内に設置された植物防疫課を挙げておかねばならない。初代課長には堀正侃氏が就任した。堀氏は植物防疫課長時代、商業系代理店の中央岡体設立について、終始公平な態度で、系統購買機関の育成と同様、商系中央購買機関育成に尽力されたのであった。なお、全国農薬販売協同組合連合会が設立された昭和27年当時は、日本農薬、三共、日産化学など、戦前から農薬に古い歴史を有するメーカーは、いずれも自社系列の全国代理店網を組織していなかった。

その後、全国農薬販売協同組合連合会の発展解消の形で全国農薬商業協同組合連合会(いわゆる全商連)が、1956(昭和31)年に設立され、初代会長には小林啓八氏が就任した。この昭和31年当時は、BHC、パラチオン、EPN、マラソン、有機水銀粉剤が一斉に水田に普及し、戦前の無機化学品系果樹農薬の時代が、近代的な有機合成化学品系水稲、果樹・園芸農薬にほぼ転換した時代であった。これら近代農薬は当時、国の重要施策であった食糧増産政策に支えられて、爆発的に全国に普及した。

3.全国農薬商業協同組合連合会(全商連)の設立

~全国農薬販売協会設立迄の時代~ 1956~1960(昭和31年~35年)

昭和30年代に入り、新しい有機合成化学農薬の生産・販売が本格化するにつれ、系統と商業者系との間に激しい販売競争が行われたが、この流通過程の全国的組織化では商業系代理店は遅れをとっていた。また、設立当初は全商連には42県参加していたものが、昭和33年には脱退者及び脱退希望者が11県におよび、全商連を根本的に改革しなければ商業系代理店の団体を維持することができないのではないかということが、論議の中心であった。このため、商業系代理店の中央機関を業者間の親睦、政治活動を目的とする全商連組織から当時の全購連のような経済行為、具体的には農薬の中央仕入機関を設立すペきだという気運が盛り上がっていた。この構想の最も熱心な提唱者は、当時の日本特殊農薬の加藤社長で、当時の堀植物防疫課長も、農家が品質の良い農薬を自由に選択して購入するには、流通過程が一本に絞られるよりも、2系統が健全に発達することが望ましいとの立場から、いわゆる商業系代理店の中央仕入機関の設立を支持した。しかし、当時の主要農薬メーカーは傘下に全国代理店網を組織し終わっており、これにより業務も順調に運んでいたので、この縦割りの組織が代理店の全国組織により中央団体が出現すると崩壊することになった。また、流通過程の巨大化と安定化は、メーカーの流通過程に対する統制力を弱めることになるなどの思惑から、結果的には日本特殊農薬一社だけが参加するという偏った形で結末を迎えたのであった。昭和32年に設立されたこの全農薬商事は、昭和35年、特農商事に名称を変更し、平成10年に解散するまで大会社として成長した。このように最初の商業系中央仕入機関の構想は崩れたが、系統の購買体制(共計運動)が進展するにつれ、商業系代理店の商圏をますます圧迫するようになったため、代理店側から商業者の結束、全購連への対抗措置を唱える声が高まってきたが、議論が紛糾してまとまらなかった。
全商連をメーカーのひもつきから解放して、真に代理店の利益代表にふさわしい体制に再建すべきだという点については異論はなかったものの、この経済的基盤について異論が続出したのである。これを大別すると、全商連を政治、経済行為ができる中央団体に改組しようとする考え方と、経済行為を行う全く新しい商業系中央仕入機関を設立する以外に商業者の団体と自衛の道は残されていないとする考え方であった。この二つの考え方は、1960(昭和35)年の全国農
薬販売協会の設立で折衷が試みられることとなった。

4.全国農薬販売協会の設立

~全国農薬協同組合設立迄の時代~ 1960~1965(昭和35年~40年)

系統の農薬全利用共同計算運動(共計運動)が進展するに従い、昭和27年以降順調に伸ぴていた卸売商社の売上高は、昭和33年以降足踏み状態となり、昭和34年には伸長率が鈍化し、扱い比率でも経済連によって次第にその差を縮められる傾向となった。系統の重圧が、日増しに商業系流通過程に加わり、商系に対する系統の圧迫は、商系最初の中央仕入機関として全農薬商事株式会社が設立された時よりも強くなっていた。このため、再度商系の中央仕入機関、具体的には全購連に対応しうる商系の全農薬株式会社が画策された。前回の失敗に鑑み、今回は関係当局への根回し、新会社の社長、専務の人選など、綿密な配慮が行われたが、結果的に各メーカーの協力が得られず、会社設立を断念、新会社設立有志によって全国農薬販売協会が全商連と併存する形で1960(昭和35)年6月に設立された。初代会長には、松本清氏が就任した。
全国農薬販売協会は、設立のいきさつが示すように、本来の主旨であった経済行為ができなかったため、実質的な活動もなく5年間が経過するのだが、結果からみると、この全国農薬販売協会は全国農薬協同組合を生む起爆剤、もしくは母体となったものであった。

1965(昭和40)年5月20日、全国農薬販売協会の第6回臨時総代会が開催され、商業系代理店の団結を強化するため、全国農薬販売協会を解散、10月1日を期し、従来の全商連を復活して、これまでの政治活動のほかに、経済活動を併せ行うことを決議した。

この決議の具体化を研究するため、下記の11名の推進委員が選出された。松田覚太委員代表(岩手農蚕社長)、吉田重男委員(吉田農事社長)、島 幸太郎(鍋林社長)木幡ネ茲郎(コハタ社長)、今村貞一(協和産業社長)、鶴巻 熙(中野組取締役)、松田吉雄(松田農薬社長)、五嶋文郎(山正代表取締役)、青木長年(東海物産社長)大森 主(山陽薬品社長)、宮野光雄(日米農薬社長)

この11名の委員による第1回推進委員会は昭和40年6月14日と15日の両日にわたって開催された。第1回推進委員会の協議内容は、全商連の復活に当たっての経済行為の具体化、及びこれまでのようなメーカーの協力金を排除して全商連を独立自主的な団体に再建するため賦課金の増額の2つであった。経済行為の具体的内容については、全国

農薬販売協会の解散即、全商連の再建を総会にかける前、サンソーゲンと特農一部商品の取り扱い、PCP除草剤のチェッカーの話が持ち上がっていて、この具体化が話し合われる予定であった。ところが、全国農薬販売協会第6回臨時総会とこの第1回推進委員会が開かれる間に、三洋貿易から新全商連に対してダイセン剤を全量扱わせても良いという提案があった。当時、サンソーゲンの取り扱い高は年550万円程度、PCPのチェッカーとしての収入見込額は1,000万円程度であったので、800トン、8憶円というこのダイセン取引の申し入れは驚天動地の出来事であった。これは、全商連の経済行為の当初目的に全くなかったもので、また新しい観点から検討しなければならない要素を含んでいたので、この第1回推進委員会は秘密会議とされ、ダイセン取り扱いは会員会社にも当分伏せられることになった。第1回委員会は、このダイセン取り扱い問題の他、末端組織強化の問題、経済行為を行うにあたっての信用供与と保証問題、出資金、取引条件(メーカー⇔全商連⇔組合員)、その他について検討し、下記の事項を決定した。

  • 1)商連として経済行為を行う。
  • 2)扱い商品は
  • ① サンソーゲン 初年度約300卜ン  3,000万円
  • ② ダイセン       800卜ン  8億円
  • ③ PCPその他についても扱うよう後日、メーカーと交渉する
  • 3)商連の出資金は、1億円とし、最低1口20万円(県協組員1人当たり)とする。

このように、ダイセン取引の申し入れがあって全商連の経済行為に活が入ったため、新団体設立の動きは、新しい局面を展開しつつ、加速度的に進展することとなった。6月26日に開催された第2回推進委員会では、「商業系中央共同購買機関は、従来の全商連を強化してこれに充てるか、全国区域の協同組合を設立するか」の問題について全員一致で、全国区域の協同組合を設立することに決めた。このため、設立趣意書、定款、規約、初年度と2年度の収支予算立案など具体的な作業を行うため、青木長年、吉田重男、五嶋文郎3名の実行委員を選出した。この実行委員会の活躍は極めて積極的で、7月10日から3日間、第1回実行委員会を開催し、設立趣意書、定款、規約、収支予算立案等の作業を始め、数回の実行委員会を経て、8月6日に全国農薬協同組合の設立に向け発起人会を開くことを決定した。
昭和27年に登録取得された「ダイセン水和剤」を全農薬に一元取り扱いを決断された、三洋貿易(株)取締役 手島氏・梅沢氏が全農薬を設立する最大要因となった立役者。梅沢氏は全農薬理事を昭和40年より昭和51年迄務めていただいた。

手島次生 氏
三洋貿易(株)
手島次生 氏
手島次生 氏
三洋貿易(株)
梅沢六郎 氏
ダイセン水和剤

設立発起人54名は以下のとおり。(会社名、所在地は当時名を記載)

氏名 会社名(所在地) 氏名 会社名(所在地)
木幡ネ茲コハタ農薬(旭川市) 鈴木博也 博愛堂薬品(豊川市)
松本菊次郎 日の丸産業社(札幌市) 青木長年 東海物産(四日市市)
北浜長作 太陽園(小樽市) 宇野ひさ 高岡屋薬局(草津市)
町田新吉 町田商会(弘前市) 岸 末雄 京和商会(京都府相楽郡)
小泉利助 小泉薬品(仙台市) 金田 守 金田商店(柏原市)
米城祐一 米城薬品(仙台市) 古川亀太郎 山陽種苗(姫路市)
佐野謙一郎 佐野商店(秋田市) 堀本一男 堀本商店(五条市)
中村秀雄 ナカムラ薬局(山形市) 松田俊弥 和歌山農薬販売(和歌山市)
長沢鹿多 長沢農蚕具商店(福島市) 宮本輝彦 宮本薬局(鳥取市)
小林 博 東農薬(水戸市) 佐次 一 本多農薬(松江市)
大垣庄司 関東油脂工業所(栃木市) 大森 主 山陽薬品(岡山市)
金子昌一 カネコ種苗(前橋市) 釣井石時 中国肥料(岡山市)
今村貞一 協和産業(熊谷市) 竹間盛基 竹間農園(三次市)
鈴木峻一 灰吹屋鈴木薬局(東金市) 佐伯政夫 三笠産業(山口市)
松本 清 松本清商店(柏市) 松村重男 松村農園(徳島市)
高安恒治 高安商店(荒川区) 喜多 栄 喜多猿八商店(高松市)
秋元憲司 秋元房次郎商店(平塚市) 村上日南子 村上商店(松山市)
上原堅次 中野組(新潟市) 金井 隆 金井商店(松山市)
吉田重男 吉田農事(新発田市) 入交太臓 入交産業(高知市)
吉本喜兵衛 吉本薬局(富山市) 北川慶次郎 井上喜商店(福岡市)
松田吉雄 松田農薬(金沢市) 宮野光雄 日米農薬(福岡市)
上田五兵衛 上田五兵衛商店(福井市) 野中太郎 野中太郎商店(佐賀市)
三枝福平 山梨化工産業(甲府市) 宮崎六夫 宮崎温仙堂商店(島原市)
島幸太郎 鍋林(松本市) 前田勝行 前田種苗(熊本市)
五嶋文郎 山正(岐阜市) 安達 博 安達博商店(大分市)
久保田豊 久保田農薬(大垣市) 日高順一 日向農薬種苗(宮崎市)
加村文雄 加村薬局(静岡市) 上野四男 上野商事(鹿児島市)

全国農薬協同組合発起人会は、8月6日、発起人42名が出席、東京・日本橋の薬業会館で開催され、正式に全国農薬協同組合を創立することを決議するとともに、創立準備委員を選出したが、これはこれまでの推進委員11名をその場で準備委員に切換えることで決着をみた。設立発起人会が無事終了したあと、8月16日付け、発起人代表松田覚太名で、発起人会で確認された全国農薬協同組合の定款、規約案、趣意書、出資引受書等を改めて発起人宛に送付、全国農薬協同組合への加入がよびかけられた。

1965(昭和40)年11月22日に東京法務局日本橋出張所への登記を済ませ、ここに全国農薬協同組合が誕生することとなった。全国農薬協同組合の誕生にあたり11名の推進委員、3名の実行委員、54名の設立発起人の並々ならぬ熱意とご尽力はもとより商系の中央仕入機関をつくるべきだという特農商事の加藤社長の構想(夢)と三洋貿易の梅沢部長の大英断という強力なバックアップがあったことを忘れることはできません。

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